王平とかいう蜀の最大の功臣wwwww
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歴史

街亭の戦いで、王平は諸葛亮から馬謖軍の先鋒を命じられ、
馬謖が山上に布陣しようとするのを何度も諌めた。
しかし馬謖が王平の諌言を聞き入れなかったため、
結果として魏軍に大敗を喫した。
しかし、王平の指揮する部隊1,000が踏み留まって陣太鼓を打ち鳴らし踏み堪えたため、
魏軍を率いていた張?は伏兵の存在を疑って近づこうとはしなかった。
敵が追撃の手を緩めたところで、彼は徐々に諸営の残留兵を収容し、
将兵を率いて帰還した。これにより蜀軍は全滅を免れることができた。
馬謖及びその配下の武将がいずれも軍令違反で処罰されたが、
王平だけはこの時の功績により特別に敬意が払われた。
参軍・討寇将軍の地位を与えられ、
五部の兵を統率することを許可されると共に、亭侯に封じられている。
諸葛亮が祁山に出陣した際、王平は別働隊を率いて山の南を守備した。
この時、司馬懿が諸葛亮の軍を、張?が王平の軍を攻撃したが、王平は堅守して張?軍を撃退している。
魏の曹爽が歩兵・騎兵あわせて10万余りを率いて漢水まで攻め寄せ、先鋒隊が駱谷に侵攻してきた。
そのとき、漢中の守備兵が三万に満たなかったため、諸将は恐れ慄いた。
ある者が、漢中を捨て後退し、漢城・楽城を固守して本隊の援助を待つべきだと主張した。
しかし王平は、漢中を取られることの危険性を考慮してこの意見を退け、前進して隘路で敵軍の足止めを行ない、救援を待つことにした。
王平は、劉敏と杜祺を派遣して興勢山に立て篭もらせ、自らは黄金谷より敵が兵を進めて来たときのために、後方での備えにあたった。
王平は、費?の援軍が到着するまで抵抗を続け、撃退することに成功した(興勢の役)。
>>10
それは外戚やからやないの
実績ゼロやし正史にも伝立てられてなくて>>7の四人には及ばんやん
>>14
まー呉懿が悪いってわけではないけど万人に対し数百で一年籠城した霍峻、漢中攻略の方針を定めた黄権、南方統治の馬忠、預言者みたいな洞察力の張嶷には敵わんちゅう話や
>>25
雲長、翼徳、孔明やろ
ちな王平がなんども魏を撃退したは言い過ぎ
この時期の魏は司馬氏の専横にあってるから一回しか侵攻できてない
でも王平の能力が落ちるわけではないとフォローはしておく
>>32
あれ?
曹爽が功績を焦って一回蜀を攻撃、それを撃退が王平
そこから司馬懿が権力を乗っ取り始めるからそれ以降一度も蜀に攻撃できてないはずなんだけど
つぎ攻めるのは鍾会・鄧艾連合軍や
>>33
さすがに荊益を奪取させた孔明より上はない
>>46
第一次北伐、第四次北伐などなど対外戦では活躍しとるけど王平が出世した第一次北伐以降で魏が漢中に攻め寄せられたことは三度しかないんや
主に司馬氏の専横で淮南に何度も反乱が起こったせいやけど
>>41
あと漢中攻略時の現場指揮官ってだけなのに漢中攻めの全体の方針立てた黄権の功績まで吸収しちゃってる
それはマイナスして黄権さんに追加してあげて
王平のハイライトがもう一つ
諸葛亮が五丈原で魏軍と対陣中に没すると、
楊儀は諸葛亮の遺言に従い全軍撤退を命じた。
ところが、かねてから楊儀と不仲であった魏延が撤退命令に
従わず、楊儀討伐の兵を挙げるという事態が起きてしまった。
この時、王平は楊儀の先鋒となり、魏延配下の兵士に向かって「公(諸葛亮)が亡くなり、その身もまだ冷たくならぬ内に、
お前達はなぜこのような事をしようとするのか」と一喝した(『蜀書』魏延伝)。魏延の兵士たちがこれを聴くと、
魏延を見捨てて逃げ去ったため、
楊儀は難なく魏延を討ち取ることに成功した。
コメント一覧
1件のコメントが投稿されています。
1 松葉浩弘 2018年08月18日 23:48 ID:VEE6hhSe0
王平は蜀の守護神
